グーグルやIBMなどが開発を進め、次世代アクセラレーターとして注目される量子コンピューター。原子や電子といった量子の振る舞いを応用した技術で、それゆえに化学や創薬の分野でもプロセスの高速化が期待されています。究極の量子コンピューターが実現するまで数十年かかると言われる中、製薬業界も海外大手メーカーを中心に応用探索に乗り出しています。
量子の性質を応用
量子コンピューターは、量子力学の原理を応用して計算を行う次世代アクセラレーター。コンピューターによる情報処理は通常、入力から結果の出力までに複数のプログラムを実行しますが、特定のプログラムに対して強力な計算能力を持つアクセラレーターを活用すれば、計算にかかる時間全体を短縮できると期待されています。
量子コンピューターは、動作原理や対応する課題によって「ゲート式量子コンピューター」と「イジングマシン(アニーリングマシン)」に大別されます。
ゲート式量子コンピューターには、数年以内の実用化が期待される「誤り訂正なし量子コンピューター=NISQ(Noisy Intermediate Scale Quantum)」と、実用化まで数十年かかるとされる「誤り訂正あり量子コンピューター=FTQC(Fault Tolerant Quantum Computer)」があります。「誤り訂正」とは、ノイズによるエラーを訂正することで、この能力を持つFTQCは「究極のコンピューター」と考えられており、理論上、複数のアルゴリズムで計算処理のステップ数を大幅に減らすことができるといいます。
一方のNISQは、理論的な高速化が証明されていないものの、すでにハードウェアが実用化されており、応用探索が盛んに行われています。日本では今年7月、日本IBMが東京大と組み、商用として日本初となる「IBM Quantum System One」の稼働を開始したと発表。扱うことのできる情報量は27量子ビット(量子ビット=量子コンピューターの情報単位)とまだ少ないものの、アカデミアや化学、金融といった民間企業が中心となり、応用に向けた研究を始めています。
ハードウェア開発では、米IBMのほか、米グーグルや米マイクロソフトといったテック大手がしのぎを削っており、数年以内に誤り訂正のプロトタイプが完成し、2030年ごろに100万量子ビットを制御するFTQCが登場すると展望されています。
量子コンピューターの応用はまだ本格的な競争状況になく、実現後を見据えた模索の段階であるため、領域横断的に人材育成やエコシステムの形成が活発になっています。ライフサイエンス業界でも、海外の大手製薬や医療機器メーカー、アカデミアなどが参画する製薬研究開発コンソーシアムの国際非営利団体Pistoia Allianceがエコシステムの形成を目指しています。
ターゲット探索やメカニズム理解に期待
「創薬で応用されればインパクトは大きい」。ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン(LINK-J)が7月に開催したイベントで、QunaSys(東京都文京区)の楊天任CEOはこう話しました。QunaSysは、量子コンピューター向けのアルゴリズムやソフトウェアの開発を行っているベンチャー企業です。
量子コンピューターは、化学、創薬、材料といった分野で応用が見込まれており、中でも、化学分野の計算は早期の実用化が有望視されています。一方、創薬について楊氏は「創薬に使うタンパク質などを扱おうとすると、どうしても相応のビット数が必要になるため、もしかしたら(実現には)時間がかかるかもしれない」と話します。
量子コンピューターは、あらゆる計算を高速化できるマシンではありません。速くなるアルゴリズムは限られているため、技術を知り、うまく課題を設定して活用することが必要です。
楊氏は、ゲート式量子コンピューターは「DFT(密度汎関数理論)が破綻する、光化学反応や酵素反応といった問題を現実的な時間で解くのに有望視されている」と解説。「少なくともNISQはサンプリングを繰り返す必要があるので、計算時間がどうしてもかかってしまう。その意味で化合物候補のスクリーニングなどへの応用は非現実的」とし、「まずは、ターゲット探索や(生体内や薬剤の)メカニズム解析での貢献が期待される」との見解を示しました。具体的には、光毒性予測のシミュレーションなどで活用アイデアが出てきているといいます。
量子コンピューターが注目を集めるのは、スーパーコンピューター(スパコン)に比べて消費電力が少ないことも理由の一つ。FTQCで高速化が可能な課題の中には、材料や流体のシミュレーションなど、すでにスパコンで行われているものもあり、スパコンで現実的な時間内に解けない計算だけでなく、スパコンの代替としても期待を集めています。
BIはグーグル、バイオジェンはアクセンチュアなどと協業
製薬業界でも、海外大手を中心に量子コンピューターへの投資が加速しています。
独ベーリンガーインゲルハイム(BI)は今年1月、グーグルとの協業を発表。分子動力学シミュレーションへの応用に向けた研究を開始しました。量子コンピューターを使うことで、従来よりも多くの分子を正確にシミュレートし、創薬に生かすことができるとBIは期待。BIは専門人材を獲得し、社内に専門ラボを設置しており、向こう数年間で大きな投資を行うとしています。
米バイオジェンは、米アクセンチュア、カナダ・1QBitと提携。神経変性疾患を対象に、量子コンピューターから着想した分子比較アプリケーションを開発し、一定の成果を得たことを明らかにしています。米アムジェンは米QSimulateと組み、同社が開発した大規模な量子力学計算の創薬への応用を検討。同社の手法は米アマゾンが提供する量子コンピューターのクラウドサービス上で実行でき、近似計算をすることなく、正確な量子力学計算を大規模に適用できるのが強みです。
このほか、独メルクは複数の量子スタートアップと提携しており、創薬、化学、材料の分野で活用が期待できるプラットフォームやソフトウェアの開発を支援しています。米メルクも昨年、NISQ用のソフトウェアを開発する米ザパタ・コンピューティングに出資。国内企業では、武田薬品工業が活用の機会を模索しているほか、中外製薬や第一三共がQunaSys主宰の応用検討コミュニティ「QPARC」に参加しています。
富士通、ペプチド創薬でイジングモデルを活用
一方、一足先に商用利用が始まっているのがイジングマシンです。
イジングマシンは、組み合せ最適化問題の処理に特化したマシン。組み合せ最適化問題とは、スケジューリングや配送計画など、膨大な選択肢から条件を満たすベストな組み合わせを探索する課題のこと。イジングマシンでは、イジングモデルと呼ばれる計算モデルに従って目的関数や制約条件を定義することで、近似解を得ることができます。
ただし、これはあくまで問題をイジングモデルに落とし込むことでパワーが得られるということを表しており、LINK-Jのイベントに登壇した慶応義塾大理工学部物理情報工学科の田中宗准教授は、まずは類型化された問題群で経験を積んでいくことが重要だと話しました。
非量子のアプローチではありますが、創薬分野では、富士通がイジングマシン「デジタルアニーラ」の具体的な活用を進めています。デジタルアニーラは、量子コンピューティングをヒントに、組み合わせ最適化問題専用に開発されたデジタル回路のアーキテクチャー。同社は、環状ペプチド創薬で安定構造探索を高速化するために19年からペプチドリームと協業を開始し、翌20年には、HPC(ハイパフォーマンス・コンピューティング)との組み合わせにより約12時間で探索が実現したと発表しました。両社は同11月に新会社を設立し、新型コロナウイルス治療薬の早期開発に取り組んでいます。
イジングマシンであれ、ゲート式量子コンピューターであれ、その利点を最大限に活用するためには、ハードウェア企業・ソフトウェア企業と開発側の企業が連携を深めていくことが欠かせません。「僕らは物理屋。産業的にどう使えるかというところにはギャップがある。アイデアをもらい、一緒に作って行きたい」と楊氏は言います。「飛躍的」という意味も持つ「Quantum(量子)」。文字通り創薬に飛躍的な進歩をもたらすかどうかは、テック企業と製薬業界ががっちり手を握れるかどうかにかかっています。