2020年のノーベル化学賞は、ゲノム編集技術「CRISPR-Cas9システム」の基礎研究を行った2人の女性科学者に贈られました。2012年の発表後、またたく間に普及し、今や生命科学の研究に欠かすことのできないものとなった同技術。治療への応用も期待されており、米エディタスとスイスCRISPR、米インテリアの3社が開発をリードしています。
高精度・簡単・安価なゲノム編集ツール
ゲノム編集技術の1つである「CRISPR-Cas9」の開発で今年のノーベル化学賞を受賞したのは、エマニュエル・シャルパンティエ氏(独マックス・プランク感染生物学研究所長)とジェニファー・ダウドナ氏(米カリフォルニア大バークレー校教授)。2012年に両氏が論文発表した同技術はまたたく間に世界中の研究者に使われるようになり、それ以降、ゲノム編集は急速に発展。発表からわずか8年でのノーベル賞受賞となりました。
CRISPRとは、多くの細菌に見られる遺伝子配列のこと。規則的に間隔が空いた短い回文構造を繰り返すのが特徴で、1987年に分子生物学者の石野良純氏(九州大教授)によって発見されました。後にCRISPRは、細菌などの原核生物が持つ獲得免疫システムの一部であることが判明。シャルパンティエ氏とダウドナ氏は、細菌がCRISPRによって外敵であるウイルスのDNAを切断する仕組みを解明しました。
細菌はウイルスから身を守るため、侵入してきたウイルスのDNAを切断するタンパク質を持っています。細菌はそうして切断したウイルスのDNA配列の一部を自身のゲノムに取り込み(取り込んだDNA配列を保存しておく場所がCRISPR)、それを使って特定のDNAと結合する「ガイドRNA」を作成。再び同じウイルスが侵入してきた時には、ガイドRNAが目的とするDNAと結合し、それを目印に誘導された切断酵素の「Cas9」がウイルスのDNAを切断します。
CRISPR-Cas9システムはこの仕組みを応用したもので、人工合成したガイドRNAとCas9を目的の細胞に導入することでゲノム編集を行います。効率よく正確に狙ったDNA配列を切断できるのが特徴で、遺伝子の働きを失わせること(ノックアウト)も、異なる配列を加えてDNAを書き換えることも可能です。
CRISPR-Cas9システムが世界中の研究者に爆発的に広がったのは、高精度であることに加え、簡単に安くゲノム編集ができるため。CRISPRはRNAを合成するだけでできますが、従来の手法である「ZFN」や「TALEN」は、標的ごとにタンパク質を新たに設計しなければなりませんでした。
治療応用 単一遺伝子疾患で有望視
ゲノム編集の応用が最も期待される分野の1つが医療です。
遺伝子治療には▽遺伝子または遺伝子を導入した細胞を人の体内に投与▽特定の塩基配列を標的として人の遺伝子を改変▽遺伝子を改変した細胞を人の体内に投与――があり、体内で治療を行う「In vivo」と、体外で加工した細胞を投与する「Ex vivo」とに大別されます。In vivoでは脊髄筋委縮症治療薬「ゾルゲンスマ」などが、Ex vivoではCAR-T細胞療法「キムリア」などが承認されていますが、いずれもベクターによって特定の遺伝子を導入したもので、ゲノム編集を使った治療法はまだ承認されていません。
CRISPRによるゲノム編集は、7000以上ある単一遺伝子疾患への治療応用が有望視されています。米経営コンサルタントのアーサー・ディ・リトルは、2040年ごろには単一遺伝子疾患や眼科疾患の多くでIn vivo遺伝子治療が使われるようになり、根治できる時代が到来すると予測。筋ミオパチーや関節リウマチ、感染症などでも遺伝子治療の市場が拡大すると見通しています。
ゲノム編集はその特徴から、従来のベクターを使った遺伝子導入法と比べ、安全性や正確性が高いと期待されています。ただ、CRISPRを含むゲノム編集は一般的に、発症や進行に複数の遺伝子が絡むような疾患への応用は難しいとされており、標的と似たDNAを誤って編集する「オフターゲット効果」の懸念もあります。
さまざまな疾患に応用が期待されることは間違いありませんが、今の技術が決して万能というわけではなく、技術の改良や安全性を高めるための研究が進められています。
鎌状赤血球症やがんなどで臨床試験
こうした中、治療応用で先行しているのは、エディタス・メディシン(米)とCRISPRセラピューティクス(スイス)、インテリア・セラピューティクス(米)の3社です。
In vivoで最も開発が進むのは、エディタスの眼疾患治療薬「EDIT-101」。レーバー先天性黒内障10型を対象に、自社で臨床第1/2相(P1/2)試験を行っています。同社はまた、Ex vivoとして、米ブリストル・マイヤーズスクイブと、αβT細胞療法と呼ばれる活性化自己リンパ球療法の開発も行っています。
米バーテックス・ファーマシューティカルズと提携するCRISPRセラピューティクスは、鎌状赤血球症/βサラセミア治療薬「CTX001」のP1/2試験を実施中。20年12月には、同試験のフォローアップ期間が3カ月を超えたβサラセミア患者7人全員が輸血を必要とせず、同様に鎌状赤血球症患者3人全員で血管閉塞症が見られなかったとする良好な途中経過を発表しました。同社はまた、幹細胞由来の補充療法を手掛ける米ヴィアサイトとともに、免疫抑制を必要としない1型糖尿病治療用のβ細胞置換製剤を開発しています。
インテリアは、米リジェネロンとトランスサイレチンアミロイドーシス治療薬「NTLA-2001」のP1試験を実施中。両社は血友病A/Bでも提携しています。インテリアのIn vivo治療薬は、デリバリーシステムに脂質ナノ粒子(LNP)を使っているのが特徴。Ex vivoでは、スイス・ノバルティスと鎌状赤血球症治療薬のP1/2試験を行っています。
続く特許争い
CRISPRをめぐっては、ダウドナ氏が所属するカリフォルニア大などのグループと、米マサチューセッツ工科大と米ハーバード大が設立した米ブロード研究所が、特許の所有権を争っています。
カリフォルニア大バークレー校(UCB)とシャルパンティエ氏、同氏が以前所属していたオーストリア・ウィーン大は、共同でCRISPR-Cas9技術の基本特許を持っています。両大は同技術の医療応用を進めるため、共同で米国にカリブー・バイオサイエンシズを設立し、同社はヘルスケア応用の権利の大部分をインテリアに供与。シャルパンティエ氏は治療応用の権利を持つCRISPRセラピューティクスと、それ以外の権利を持つERSゲノミクス(アイルランド)を設立しました。
エディタスへのライセンサーであるブロード研は、2012年にフェン・チャン氏らの研究成果をもとに米国で人間、動植物など真核生物に対するCRISPR技術の特許を取得。遅れて特許を取得したUCB側はオリジナルの権利を主張し、ブロード研の特許無効を訴えましたが、米国では両者の技術は別物と判断されました。UCB側はさらなる再審査を求めており、争いが続いています。
一方、欧州では独メルクも真核細胞へのCRISPRゲノム組込み技術の特許を獲得。19年にはブロード研と、両者それぞれが持つライセンスに関する非独占的ライセンス契約を結び、広く知財の使用を認めるフレームワークを構築しました。両者からは、創薬支援を手掛ける独エボテックなどにライセンスが付与されています。
次世代技術の開発も
CRISPR-Cas9を発展させた技術の開発も進みます。
ブロード研のチャン氏が設立した米ビーム・セラピューティクスは、CRISPR-Cas9をもとに1塩基の編集技術を開発。同社は現在、鎌状赤血球症とβサラセミアを対象とするEx vivo治療「BEAM-101」のIND申請に向けて準備を進めています。
日本企業では、エディタスとライセンス契約を結ぶ東京大発ベンチャー・モダリスが、CRISPR-Cas9を応用した治療法を開発中。同社は「dCas9」(切断機能を無くしたCas9酵素)を使って遺伝子のスイッチのON/OFFを調整する「CRISPR-GNDM技術」を持っており、筋疾患や中枢神経疾患に対する治療法を開発しています。
Cas9の改変以外に、別のタンパク質を使ったCRISPR技術も開発されています。その1つが、エディタスの開発した「CRISPR-Cpf1」。Cas9より標的DNAへの特異性が高く、オフターゲット効果が起こりにくいとされています。ダウドナ氏も、Cas9の半分の大きさの「CasΦ」を使った技術を開発。自身が設立したスタートアップ企業にライセンスしています。
このほか、ゲノムを切断するCas9ではなく、ゲノムを削るCas3酵素を使った「CRISPR-Cas3」技術を、大阪大発ベンチャーのC4Uや米ローカス・バイオサイエンシズなどが開発中。C4Uは、ノルイミューン・バイオテックとともに、同技術を活用した他家CAR-T細胞療法の研究を進めています。ローカスは、CRISPR-Cas3とバクテリオファージを組み合わせた「CRISPR-Phage」法を考案。感染症領域への治療応用を目指しています。
(亀田真由)