バイオハブの最初の施設となったシュピーツ研究所(スイス・シュピーツで2022年6月8日撮影、ロイター)
[シュピーツ=スイス ロイター]その舞台はスパイ小説そのものだ。眼下には澄みきったトゥーン湖を望み、頭上には雪をいただくアルプス山脈が広がる。そんな土地に、世界で最も致死率の高い病原体を扱う厳重な研究施設がある。
スイス中西部の都市シュピーツにあるシュピーツ研究所は、第2次世界大戦以降、化学・生物・核兵器の脅威に対する調査研究を行ってきたことで知られる。同研究所は昨年、次のパンデミックを引き起こす可能性がある新たな病原体を培養・保管・共有する国際的な研究機関ネットワークの最初の施設となった。
WHO(世界保健機関)の「バイオハブ」は、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で得た教訓をもとに構想されたものだ。新型コロナウイルスは中国で最初に発見されたが、その危険性を理解し、対抗手段を開発するためにウイルスのサンプルを入手しようとした世界中の研究者は、大きなハードルに直面した。
シュピーツ研究所がバイオハブ施設としての取り組みを開始して1年あまりがたったが、これに携わる研究者らもまた、壁にぶつかっている。
その壁とは、プロジェクトの第一歩となる新型コロナウイルスの変異株のサンプルを受け入れるのに必要な保証の確保などだ。バイオハブへの参加は任意で、大国の中には協力しない国もあるかもしれない。加えて、ワクチン、治療法、検査法などの開発で知的財産権の保護に抵触することなくサンプルを共有する仕組みもまだない。
「バイオハブの目的は、コロナウイルスのようなパンデミックが次に発生したとき、感染の拡大を食い止めることだ」。シュピーツ研究所でバイオハブプロジェクトの責任者を務めるイザベル・フンガー・グラーザー氏は、研究室でロイターの取材にこう答えた。感染の拡大を防ぐには、世界中の研究者が病原体のリスクを評価できるよう、サンプルをバイオハブに送付する必要があるが、彼女は「それは私たちが考えていたよりはるかに難しいことだとわかった」と話す。
シュピーツ研究所でバイオハブプロジェクトの責任者を務めるイザベル・フンガー・グラーザー氏(スイス・シュピーツで22年6月8日撮影、ロイター)
厳重な施設
シュピーツ研究所の外観からは、そこで扱っているものの危険度の高さをうかがい知ることはできない。建物は1970年代に建てられたヨーロッパの大学のように角張っていて、中庭の芝生では牛が放牧されている。
しかし、バイオセーフティーオフィサーの部屋は、いつもブラインドが閉じられている。彼の部屋のドアは、数秒でも開けっ放しにしているとアラームが鳴る。彼は、バイオセーフティーレベルに最も注意を要する研究室のカメラ映像を、複数のモニターで常に監視している。
新型コロナの原因ウイルスであるSARS-CoV-2を扱っているのは、セキュリティレベルが2番目に高いBSL3の研究室だ。フンガー・グラーザー氏によれば、バイオハブが扱うウイルスのサンプルは鍵のかかった冷凍庫で保管されている。
コロナウイルスやそのほかの病原体を扱う研究者は防護服を着け、時に自分専用の空気供給装置を装着する。彼らは、密閉された格納庫の中でサンプルを扱う。研究室から出る廃棄物は、付着している病原体を殺すため最高1000度の超高温で加熱される。
研究チームは、これまで研究所から病原体が外に漏れたことはないと言う。フンガー・グラーザー氏は、その評価がバイオハブの最初の施設に選ばれた重要な理由だと話す。WHOの本部があるジュネーブに近いという地理的条件もメリットだ。WHOとスイス政府は、バイオハブの運営予算として年間60万スイスフラン(62万6000ドル)を負担している。
BSL4施設で作業するシュピーツ研究所の職員(スイス・シュピーツで22年6月1日撮影、同研究所提供、ロイター)
これまでも研究者は病原体を共有してきたし、既存のネットワークや地域のリポジトリもある。しかし、そのプロセスは場当たり的で、時間がかかることも少なくない。例えば、発展途上国のあまり知られていない研究者が、先進国の研究者から信用を得るのは難しいことがある。フンガー・グラーザー氏は「多くの場合、仲間内での共有にとどまっている」と指摘する。
オランダにあるエラスムス医療センターのウイルス科学部門で責任者を務めるマリオン・クープマンス氏は、2019年12月に中国・武漢でSARS-CoV-2が確認されてから彼女の研究室がウイルスを入手するまでに1カ月かかったと振り返る。
中国の研究者はいち早くウイルスの遺伝子配列をオンラインで公開し、世界中の研究者が初期の研究を開始するのに役立った。しかし、新たなウイルスがどのように感染し、治療薬など既存のツールにどう反応するかを理解するには、生きたサンプルが必要だと研究者らは言う。
ルクセンブルグは新型コロナウイルスのサンプルをバイオハブに提供した最初の国で、南アフリカと英国がこれに続いた。WHOによると、ルクセンブルグはアルファ、ベータ、ガンマ、デルタの各変異株を送り、南アフリカと英国はオミクロン株を提供した。
直面する課題
ルクセンブルグは、オミクロン株の発見から3週間足らずで南アフリカからバイオハブを通じてサンプルを入手し、同国の研究者は現在感染の主流となっている同株のリスク評価に着手することができた。ポルトガルとドイツも同株のサンプルを受け取っている。
BSL3施設で作業するシュピーツ研究所のスタッフ(スイス・シュピーツで22年6月1日撮影、同研究所提供、ロイター)
しかし、ペルー、エルサルバドル、タイ、エジプトは、今年はじめにそれぞれの国で見つかった変異株を共有したいと意思表示しているが、いまだに実現していない。フンガー・グラーザー氏によると、その主な理由は、各国のどの役所が共有に必要な法的な保証を提供するのかはっきりしないからだという。彼女は、安全性や使用に関する同意書に誰が署名するかについても国際的な取り決めはない、と付け加えた。ロイターは4カ国にコメントを求めたが、いずれも応じなかった。
WHOもフンガー・グラーザー氏も、バイオハブのプロジェクトは試験的なものであり、すでに特定のプロセスではスピードアップが見られると強調している。
もう1つの課題は、ワクチン開発など商業的利益につながる可能性のある研究で使用するサンプルを、どのように共有するかだ。バイオハブが保管するサンプルは無償で提供され、広く利用できるようになっている。しかし、製薬企業が無報酬の研究者の発見から利益を得るような場合には、潜在的な問題を引き起こす。
WHOはバイオハブを長期的な取り組みと位置付け、世界各地の研究所をオンライン化する計画だ。しかし、その資金をいつ、どのように調達するかは明確でない。加えて、任意参加であることがプロジェクトにとって足かせとなっている。エラスムス医療センターのクープマンス氏は「中国やインドネシア、ブラジルなど、ウイルスを絶対に共有しない国や、共有が極めて難しい国もある」と話す。
フンガー・グラーザー氏は、新型コロナのパンデミックを踏まえ、新たな感染症の脅威に対する考え方を変えなければならないと強調する。彼女は「緊急事態になれば、WHOはウイルスのサンプルを世界中の研究者のもとに運ぶために、飛行機を用意すべきだ。蔓延を防ぐことができれば、それは価値のあることだから」と話した。
(Jennifer Rigby、編集:Michele Gershberg/Nick Macfie、翻訳:AnswersNews)