治療とは、医療とは何なのか――。人間とは何なのか――。
ピーター・スコット-モーガン博士の話を知ったとき、私はこんなことを考えました。ピーター博士は英国のロボット科学者で、ALS(筋萎縮性即索硬化症)という難病に、自身をサイボーグ化することで立ち向かおうとしている人です。彼の自伝「NEO HUMAN ネオ・ヒューマン:究極の自由を得る未来」は昨年、日本語版が刊行され、NHKの「クローズアップ現代+」でも取り上げられるなど話題になりました。
ALSは、筋肉を動かすための神経(運動ニューロン)が障害され、徐々に体を動かせなくなる病気です。手足だけでなく、食べ物を飲み込んだり、呼吸したりするのに必要な筋肉も動かせなくなるので、命に関わります。今のところALSを根治させる治療はなく、症状の進行を遅らせる薬剤が承認されているだけで、大きなアンメットメディカルニーズが存在する疾患です。
ALSと診断され、余命宣告を受けたピーター博士は、自身の体の機能を次々と機械に置き換え、サイボーグとして生きる道を選びました。気管は酸素を送り込むポンプに、胃は栄養を取り込むチューブ(胃瘻)につなぎ、誤嚥性肺炎を防ぐために食道と気管を分離。膀胱にもカテーテルをつなぎ、人工肛門を装着することで排泄を処理するシステムも装備しました。食道と気道を切り離したことで声を失うことになりましたが、AI(人工知能)を組み込んだ会話システムとアバターを通じて周囲とコミュニケーションをとっています。
サイボーグといえば少し前までSFの世界の話でした。しかし、ピーター博士は現実世界でその可能性を自分の体で追究しています。「ニューモダリティ」という言葉が製薬業界でバズって久しいですが、テクノロジーで難病を克服する道が開けるのなら、サイボーグも立派なモダリティなのかもしれません。
近視の人がメガネやコンタクトレンズを使うように、ALSなど重い疾患を抱えた人が、失われた体の機能を機械に置き換えることで不自由なく生活できる――。そんな未来が訪れるかもしれないと考えると、夢は広がります。
問われているのは私たちの常識
一方で、ピーター博士の生き方は常識への挑戦でもあります。私が彼のことを知ったとき「治療とは、医療とは何なのか」「人間とは何なのか」と感じたのも、彼の生き方が今の常識とあまりにかけ離れていたからにほかなりません。
米国でブタの心臓移植を受けた男性のニュースに触れたときも、同じようなことを考えました。ブタの大動脈弁を用いた人工心臓弁の移植は確立された治療としてすでに存在しますが、ブタの心臓そのものを丸ごと移植したのは世界初。手術には拒絶反応を抑制するための遺伝子改変が施されたブタの心臓が使われました。移植を受けた男性は術後2カ月生存したのち、残念ながら亡くなってしまいましたが、ブタの心臓が人体で機能する可能性が示され、異種移植は実現へ一歩前進しました。
ヒトという生物には元来存在しないものを体に入れて生きる。病気や怪我で失われた機能をどんどん機械やほかのパーツに置き換えていく。そうした場合、どこまでが人間なのか、人間でなくなるとすれば何になるのか。そもそも人間とはどのような存在なのか。ピーター博士の生き方や、ブタの心臓移植を受けた男性のニュースは、そんな哲学的な問題を突きつけているように思います。
技術による身体の拡張は時に物議を醸します。陸上競技・走り幅跳びの世界では昨年、ドイツの義足ジャンパー、マルクス・レーム選手が8メートル48センチの世界記録を打ち立てましたが、この記録は同じ年に行われた東京五輪の優勝記録(8メートル41センチ)を上回っています。本人のたゆまぬ努力があってこその記録だとは思いますが、科学の粋を集めた義足の進化には感心せざるを得ません。
機械的に作業を支援する「アシストスーツ」「パワードスーツ」はすでに実用化されており、テクノロジーによって人間の体を意図的にバージョンアップさせることも可能になりつつあります。治療とは、医療とは何なのか。どこからが治療や医療ではないのか。考え続けなければならない問題であるのは間違いありません。
ピーター博士やブタの心臓を移植した男性の選択には賛否両論ありますが、問われているのは彼らの挑戦ではなく、私たちの意識や常識なのかもしれません。私は創薬研究者ですが、固定観念に縛られず、自由な発想で「治療」の可能性を考えていきたいと感じています。
ノブ。国内某製薬企業の化学者。日々、創薬研究に取り組む傍らで、研究を効率化するための仕組みづくりにも奔走。Twitterやブログで研究者の生き方について考える活動を展開。 Twitter:@chemordie ブログ:http://chemdie.net/ |