コロナ禍の中、人類の希望とも言えるワクチン。その原価と売値をめぐって議論が起こっているのをご存知でしょうか。英ガーディアン紙が伝えたもので、ファイザーの新型コロナワクチンは原価76ペンス(約119円)に対して22ポンド(約3450円)で販売されていることが議論になっているというのです。
このことがニュースになって以降、ツイッターでは「世界の危機を利用して暴利をむさぼっている」「われわれの税金が海外に流出している」といった趣旨のツイートが日本でも多く見られるようになりました。海外では「アストラゼネカはワクチンを原価で供給しているのに、ファイザーは利益を追求している」という怒りのツイートもありました。
私の周囲にワクチンを肯定的にとらえている人が多いのもありますが、創薬研究者をやっている身としては、ワクチンがこんなふうに叩かれていることにショックを受けました。もちろん、ワクチンに否定的な考えを持つ「反ワクチン」の人がいることは知っています。しかしそういった人たちは、主にワクチンの安全性について批判していると思っていたのです。果たして、ファイザーはワクチンで過大な利益を追求しているのでしょうか。
新型コロナウイルスワクチン特有の事情
ガーディアン紙でも指摘されていますが、76ペンスという原価の試算には、輸送費や研究開発費が含まれていません。特にファイザーの(モデルナも)新型コロナワクチンは超低温での保管が必須で、当初は輸送手段の確保に苦戦したと伝えられています。有効期限も比較的短く、頻回の生産に耐えられる体制を準備する必要もありました。
「安定性が高く、有効期限の長い、使いやすいワクチンを作ることはできなかったのか」。そう思う人もいるでしょう。ご指摘はごもっともですが、今回の場合、最も重視されたのは、効果の高いワクチンをいかに迅速に作るか、でした。緊急事態ですから、安定性や使いやすさといった点は二の次だったのが実情でしょう。流通や製造にある程度のコストが発生するのは、やむを得ない状況だったのです。
国によって異なる価格
2つ目のポイントが、ファイザーが国によって価格設定を変えていることです。同社のアルバート・ブーラCEOはSNSへの投稿で、同社のワクチンの価格は「tiered pricing」(段階的な価格設定)という方法で決められていると明かしています。
「裕福な国は持ち帰り用の食事代程度の負担で購入し、国民に無料で提供する。中所得国にはその半額程度、低所得国には原価で提供する。最も貧しい地域の多くは、寄付によって接種を受ける」。ブーラ氏は、くだんの投稿でこのように述べています。
要するに、日本を含む富裕国には、ほかの国や地域より高い価格で供給されているということです(私の印象では、このことはあまり日本国内では認識されていないように思いますが)。これは、世界中にあまねくワクチンを供給するために必要なことだと思います。
ウイルスに対抗し、社会的・経済的な活動を正常化させるには、世界中にワクチンを行き渡らせなければなりません。一方、営利企業としては、研究開発や製造、流通にかかるコストをまかない、一定の利益を上げる必要があります。そのため、国の豊かさに応じて価格に差をつけなければ、すべての国に供給するのは難しい、との結論に至ったのでしょう。冒頭にご紹介したガーディアン紙はイギリスの事例を取り上げていますが、当然、イギリスも低・中所得国より高い価格で購入しているはずです。
成功するかわからない研究開発に莫大な投資をしている
製薬企業は、薬やワクチンの研究開発に巨費を投じています。細胞や動物を使った実験で良い結果が出たとしても、臨床試験で同じような結果が出るとは限りません。臨床試験で良い結果が出なければ、承認を得ることはできず、販売して投資を回収することもできないのです。2019年に報告された論文によると、臨床試験の成功確率は14%ほどで、臨床試験に入るまでに脱落したプロジェクトを含めると、成功確率は途方もなく低い数字になります。
製薬企業の研究所にいながら、1つも新薬を作ることなく研究者人生を終える人は珍しくありません。私も10年以上、製薬企業で研究者をしていますが、薬になる化合物を自分の手で生み出したことはまだありません。周囲を見渡しても、薬になる化合物を作ったことのある人はごく稀。一人の研究者がその手で新薬を生み出せる可能性というのは、そのくらい低いのです。
加えて、臨床試験には莫大な資金が必要です。先にご紹介したブーラ氏の投稿によれば、同社がワクチン承認までに投じた研究開発費用は20億ドル(日本円で2000億円以上)。これだけ投じても、成功するかどうかは最後までわからない、ギャンブルのような世界なのです。
ファイザーが手掛けているのはコロナワクチンだけではありません。もちろん、ほかのプロジェクトで失敗することもあり得ます。失敗したプロジェクトは(資金的に)大きな損失となることを考えると、継続的に新薬開発を行っていくために一定の利益を成功した薬やワクチンの価格に上乗せすることは、理解できるのではないでしょうか。企業の利益を認めず、1つの開発失敗で立ち行かなくなる(すなわち、その会社が作っているほかの薬も供給できなくなる)ようなシビアな世界をよしとすべきなのでしょうか。
製薬企業は患者さんの命に関わる仕事をしているからこそ、その責任を果たすためにも必要な利益はきちんと確保すべきだと私は思います(もちろん、暴利をむさぼるような姿勢はいだたけませんが)。
日本からブレークスルーが生まれた可能性は
冒頭に取り上げた「原価が安いワクチンを高額で売りつけられ、税金が海外に流出している!」との主張はある意味、「国内でワクチンをいち早く開発できていたら」という「if」の裏返しなのかもしれません。
mRNAワクチンの開発でカギとなった研究に長年携わってきたカタリン・カリコ博士は、その研究がなかなか評価されず、研究の場をアメリカからドイツに移した人です。今回の新型コロナワクチンの成功は、長い間日の目を見なかった研究が、世界的な危機によってようやく評価された瞬間でもありました。
mRNAワクチンの開発は「今は評価されない研究でも、いつか世界を救ったり、世の中を大きく変えたりする可能性がある」というサイエンスの奥深さと残酷さを浮き彫りにしています。もしも日本にカリコ博士の居場所を用意できていたら――。そんなことを考えてみたくもなります。
近年、日本のアカデミアや企業には、かつてのmRNAワクチン技術のような研究を受け止められる余裕や風土はほとんどないように思います。役に立つかどうかわからない研究を、細々とでも続けられる環境がなければ、ブレークスルーは生まれません。
最近、政府はスタートアップ支援を声高に叫んでいますが、ぜひバイオテック業界へのサポートも拡充していただきたいと思います。良いモノが生まれ、それに正当な対価がつき、さらなるブレークスルーへとつながる。そんな循環が経済成長につながります。製薬産業が「成長の柱」として存在感を示せる、そんな土壌が生まれることを願ってやみません。
ノブ。国内某製薬企業の化学者。日々、創薬研究に取り組む傍らで、研究を効率化するための仕組みづくりにも奔走。Twitterやブログで研究者の生き方について考える活動を展開。 Twitter:@chemordie ブログ:http://chemdie.net/ |